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穴澤雄介年表


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穴澤雄介屋外写真

中学校時代

◆1987年◆

そんなわけで、めでたく音大の付属中学へ…。と、思ったら…。

もう一つ受験 し、こちらも合格していた、筑波大学附属盲学校中学部へ入学。

もちろん当初の第1志望は音中でしたが、やはり視力低下のプレッシャーを強く感じていま したし

こちらも高等部からは音楽科があるとのこと、そして何より受験に行っ た時の控室の雰囲気がものすごく良かった。

自分よりも視力の低い同級生が、明 るくのびのびとしている姿勢には勇気づけられましたし

視覚障碍者として自立 をする意味でも、こちらを選ぶべきだろうと考えました。

まあ…、音中のほうへ 行っていればですねえ…

受験した時点で男子は私を含めて3人しかいませんで したから…

そういう部分では…、そりゃあそりゃあ天国でしたでしょうけどね え…。

それを思うと、ちょっぴり惜しいような気もいたしますが…。

でも、きっと音中へ進んでいたら、遊んでばかりで、全然駄目だったかもしれませんしね。

さて、中学からは軽音楽部に入部。キーボード、パーカッション、ピアノ、ドラムス、ヴォーカル…。

色々とやれて、とても楽しかったですねえ♪

家庭内では、会社員をしていた父が、自営で貿易会社を始めました。

当初は、それなりに業績も悪くなかったのだと思うのですけどねえ…。

◆1988年◆

この頃になると、いくら拡大コピーをしても、楽譜を見ながら演奏することが 難しくなってきました。

ヴァイオリンのレッスンでは大苦戦。

楽譜が見えないために、読み間違いをしてミスをしただけだとしても

先生は容赦なく、「その音違う、そっちの音も違う」と怒ります。

一方、軽音楽部ではいわゆる「耳コピ」 という手段で楽曲を覚えることが通常でした。

私は次第に楽譜重視のクラシック音楽を苦痛に感じるようになり、ヴァイオリンのレッスンをサボることが増え


ほとんどやめたに等しい状態となりました。

家庭内では家族喧嘩が絶えず、母は少しずつ家に帰って来なくなり、不器用な がらも父が食事や弁当を作ってくれるようになりました。

やがて離婚。私も少しずつ家事を覚えて行きました。

◆1989年◆

中学3年生になり、高校受験をどうするのかという問題が浮上。

軽音楽部が楽しくて、夢中になっていた私は、同じ筑波の普通科へ進み、バンド活動がしたいと考え

その旨を進路相談で担任に告白。

「お前、こんな成績で普通科に受かる わけがないだろ!」と、あっさり否定され…。

「じゃあ仕方がないかあ」と、気が進まないながらも、ほとんどやめていたヴァイオリンを、また少しだけ頑張っ
て音楽科を受験。

無事に合格することができました。

つづき(高等部時代)


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