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穴澤雄介年表


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穴澤雄介屋外写真(後ろ姿)

高等部時代

◆1990年◆

筑波大学附属盲学校高等部本科音楽科へ入学。

そんなわけで、学校の授業は音大の付属高校のような内容。

ですから、基本的にクラシック音楽を学ぶわけで、 楽譜の問題は相変わらず付きまといます。

おまけに、主科実技(ヴァイオリン) の講師とは対立。またもや気力を失います。

頑張っていたことと言えば…、やっぱりバンド。普通科の生徒たちとビートルズコピーバンドを結成。

私はベース& ヴォーカルを担当。文化祭を生きがいにしていたような学校生活でした。

家では、父が趣味にしていたギターなども弾いていましたですよ。

◆1991年◆

視力の低下が止まらず、日常生活にも支障をきたすようになってきました。

歩行中等での怪我が絶えず、白杖を持って歩くようになったのが、確かこの頃です 。

文字や楽譜を読むスピードもさらに遅くなり、学校の成績は落ちる一方でした 。

少しずつ点字へと切り替えて行きましたが、それもすぐにすらすら読めるようになるわけではありませんから、状況は変わりませんでした。

この年、2回目となる心臓の手術を受けましたが、この時の手術はカテーテルによるものでしたから、軽く済みました。


この頃から、バブル経済の崩壊や円高の影響を受け、父の貿易会社の業績は悪化。

雲行きの悪さを息子として感じないわけがありません。

元々贅沢な暮らしなどできていませんでしたが、さらに質素に生活しなければと、常に心がけていました。

支えになっていたのは、やはりビートルズコピーバンド。

しかし、この年の文化祭を最後に解散。

家ではギターの弾き語りなどをして、作詞作曲にも挑戦。

友達とストリートライブもしてみましたが…。

作詞の能力については全く持ち合わせていないと痛感。

やはり、自分にはインストルメンタルが向いていると感 じました。

そこで、それまで色々な楽器に触れてきましたが、そろそろ専門楽器 を一つに絞らなければと考えます。

たくさん悩みましたが、自分にとって一番思い通りに操れる楽器という視点においては

なんだかんだ言っても大嫌いなヴァイオリンなのではとの結論に達したのですよね。

それに、よくよく考えてみれば 、大嫌いなのはヴァイオリンではなく

レッスンなのだということも判明しまして…

気がつくのが遅いですよねえ、私…。

ついに、ヴァイオリンでクラシック以外の音楽を弾いてみようと試み始めたのです。

◆1992年◆

この年の6月、体育の授業中の事故により右眼を負傷。

まだ0,02くらいの 視力を持っている眼でしたが…。左眼の視力低下も加速してきました。

音楽では初めてヴァイオリンでバンドに参加。ロック・フュージョン系の音楽 を中心に、オリジナル曲も少しだけ演奏していましたねえ。

久々にヴァイオリンをたくさん練習するようになりましたねえ。

作曲や即興演奏に着目し始めたのも この頃です。とても楽しめましたが…

しかし現実は高校3年生、やはり進路の問題が…。

身体的な面で考えてみても、それまで経験してきたことを思い返してみても

もう自分は音楽でどうにかすること以外、道は残されていないだろうと思いました。

けれども、どうやってプロの音楽家になるのかと考えてみると

まだ当時の私の知識や常識、そして勇気では、漠然と音大に進むことしか思いつき ませんでした。

そこで、仕方がなく音大受験を決意しますが…。

楽譜も勉強も覚えたての点字でのろのろ。

お金がないので音大の講習会へ行ったり、音大の教授のレッスンに通ったり

いい楽器に買い替えたりなんてこともできません
(これらは私にとって、どうでもよいことでしたが、音大受験には大切なことらしく…、こういう部分が大嫌いなんですよね、日本のクラシック音楽界)

さらに、高校のレッスンでは講師との溝が広がる一方でした。

ついに学校規模での問題にまで発展し、私は主科実技の授業をヴァイオリンから作曲に移行してもらい

ヴァイオリンは学校外で別の先生のレッスンを受けるという、異例の措置がなされま した。

等々、不利な条件がたくさんありましたが、一応全力で受験してみましたよ。

見事に落ちましたけど(音大も見る目ないよねえ、なあんちゃって)。

◆1993年◆

もう一つ出願していた筑波大学附属盲学校高等部専攻科音楽科へ入学。

こちらでは、2年間の追加の専門教育を受けることができます。

私は入学当初、一年ここで勉強をした後、再び音大を受験しようと考えていました。

しかし、父の会社の業績は、さらに悪化しているようでした。

お金のかかる音大へなんか行っている場合ではないと判断。

専攻科を卒業して、プロの音楽家になろうと決意。

私は、ストレートで音大に合格している架空の穴澤雄介を想像しました。

この専攻科の2年間で、音大で4年間学んだ架空の穴澤よりも、1ランク上の穴澤雄介になってやろうと自分に誓いました。

まず、クラシック音楽を学べる機会はこの2年間が最後だと思い、朝から学校の閉まる17時までは、死に物狂いでクラシックを勉強しました。

おかげさまで、対立していたヴァイオリンの講師は学校側が代えてくれましたし

作曲のほうも引き続き「もう一つの主科」といった解釈で、 特別に教えてもらえることになったのです。

吸収できるものは、極力なんでも吸収しようと頑張りました。

そして17時以降は、社会人のアンサンブルやバンド に参加し、可能な限り様々な音楽に触れようと力を注ぎました。

「第43回全国 盲学生音楽コンクールヴァイオリン部門」にて第2位(第1位該当者無し)。

◆1994年◆

引き続き学校ではクラシック音楽の勉強に力を注ぎ、第二副科実技ではフルー トも…。

けれども、社会に出たら楽譜重視の世界では勝負にならないだろうこと を悟ります。

学校外での音楽活動では、即興演奏の技術が特に役立ちました。

ジャズ系やポップス系のバンドを、いくつか掛け持ちして演奏していました。

この頃になると、もう人影が認識できる程度しか視力は残っていませんでした。

それに加えて、眼球自体が弱くなり、強い痛みに襲われることが多くなってきました。

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